こんにちは。Dです。
前回の更新からかなり早い投稿となりますが、今回は単純に自分の思考整理のために書いています。
ライティングとかSEO対策とか全く関係ないです。
残念でした!
そんなの個人的に考えてりゃいいじゃん!って?
ごもっともですが、Dも人間なので吐き出したいときもあるんです。
ここ、ブログですし!
というわけで、書いていこうかなと思います。
最近の教育と人間性についてのお話です。
以前に書いた”人間の全てがデータ?アニメ「PSYCHO-PASS」の世界は現実になるのか”と同系列の内容です。
気になる方は覗いてみてやってください。
個人主義と過保護すぎる現代
個人主義が絶対となりつつある現代の日本では、若者の多くが顔を出し、注目を集め自分が一番!と常にPRしている。
現代はそこに間違いや道徳的に反することがあっても、叱咤や叱責をしたら罰せられるおかしな時代です。
学校や会社では、少しきつく指摘すればパワハラ・セクハラ・責任問題などと喚かれます。
子どもへの体罰は絶対的悪であり、どんなことがあってもやってはいけない!という親も少なくありません。
アニメや漫画などの創作に関しては、やれ暴力シーンやグロテスクなシーンはカットせよという。
子どもに少しの劣等感も持たせてはいけない
心にわずかな傷も付けてはいけない、体罰も100%NG!
いじめはいじめるほうが絶対的な悪だ!
まあ、これらを声高らかにいう人は多いと思う。
とくに現在20代~30代で子供の親になっている人。
ひとつ聞きたいのが、こんなふうに育てられた子は、守ってくれる親が死んだあと自力で生きていけるのか?ということ。
会社に勤めれば、自分より仕事ができる人なんかいっぱいいます。
上手くできなくて上司や先輩に怒られることもいっぱいあります
理不尽に怒鳴られることもいっぱいあります
多少いじめにあう時期もあるでしょう
・・・まだ親がサポートできる期間に、将来的なこれらの状況に対しての耐性パラメーターを上げてあげずにどうするんですか?
周囲が悪い!会社が悪い!って言い続けるんですか?自分が死んだらどうするの?
って思うんですよ。
自分の子がかわいくて大事なのはわかります。
が、大事にすること=傷つけないこと・苦労をさせないこと
は別問題だというのがDの考えです。
親の役目は子を愛玩・溺愛することではなく、1人の人間として立派な大人になれるよう導くことです。
子に対して時には心を鬼にできないなら、親にはならないほうがいいでしょう。
愛玩するのが目的なら、犬でもネコでも飼えばいいんです。
最終的に放棄する(親のほうが先に死ぬ)のが決まっている人間を飼うのはやめましょう。
それの面倒をみることになる周囲(会社・国)に迷惑です。
(でもそうなると今度は少子化が進むから、一概には言えないのが国の運営で面倒なところだなあと常々思う)
よく
中高生が悪口を言われたことで命を絶った
新入社員がちょっと仕事できつく怒られたらうつ病になった
とか言われていますが、これは「そういうことに対する免疫を幼少期から身に付けさせなかったから」だと思うのです。
産まれたときからずっと親に全肯定され「いいこいいこ、あなたは世界一(^^♪」とほしい物は与えられ、間違ったことも否定されない。
そんな環境で育ち、いきなり学校や会社みたいな社会に放り出せば、そりゃ耐えられないだろう。
うちはそんなことはない!という家庭も多いと思いますが、Dの個人的観点から見れば十分甘いところが多いです。
別に軍隊みたいな極度のスパルタがいいというわけではなく、普通でいい。
親の価値観を子に押し付けちゃいけない!みたいなことを気にしてる人もいますが、個人的には本人に責任能力がない以上は、親の価値観をどんどん押し付けていいと思います。
会社に行けば会社の価値観を押し付けられるし、学校じゃ学校のルールや規律を押し付けられるんですから。
むしろそこでルールに従うことを学ばせなければ、社会に出てから生きていけない。
・・・・が!!
なぜか現代の日本は親の価値観を子に押し付けちゃいけない!の意見のほうに傾いて、結果的に自殺者やうつ病発症者を増やし続けているんですよね。
どんなに長時間労働を減らそうが、働きやすい環境を作ろうが、怒られること・否定されること・傷つくこと・挫折することに耐性がない人間はもちません。
しかも、わが子が誰より一番!他人の都合なんか一切知らない!と親が奴隷のように子どもを可愛がれば、子どもは他人のことを認識できないし考えない人間になる。
わが子が一番!はいいけど、他人の心を考えられる大人に育てるのが親の役割のひとつだと思うのです。
でも、今の親世代自体がそんな風に育てられてるから、そもそも子育てができるような状態じゃない。
もちろん全員が全員そうじゃないですが、十二分に甘い環境で育っている親も多いでしょう。
Dの身近にも多数いるので、少なくはないはず。
例えば「うつ病を患っている」とか「パニック障害を持ってる!」とか、やけに精神病を自己主張して書いてる人も多いですが、それ自体いびつに感じて仕方ない。
周囲がそれを知っていて、優しくする分にはいいと思います。
でも精神病ってのは自己主張するもんじゃないでしょう?
・うつ病だから優しくしてね!
・精神病患ってるけどがんばってる自分をちやほやしてね!
っていう心理。
Dはどうにもそれが嫌いなんですよ。
頑張ってるのなんか、誰しも同じでしょう?毎日仕事してお金稼いで必死に生きてる。
それが病気だから優しくしてね!って、どうなの?と思うんです。
自分はうつ病になるまで頑張ったから、もうあとはちやほやされるだけ!自分うつ病だよ!(自己主張)
という流れがね。
うつ病は病気だから頑張れなくても仕方ない!って理由つけて、楽しながらちやほやされようとする心理がとにかく嫌い。
その割に自分の都合がいいことはどんどんやっている。
で、何かを言われたり責められたら悪化したり自害したり・・・
正直なところ、社会的に見れば生産性のない人間は存在価値がありません。
D個人の意見とか見解ではなく、人間は社会性を伴う動物です。
何かしらの形で社会に対して貢献を行うからこそ、社会生物の一員となります。
病気だからそれができない
って、本来はとても恥ずかしいことです。
ブログやネットを使って広告活動をしているじゃないか!なんて意見もあるとは思いますが
それはあくまでネットという現代技術があるからこそです。
※Dも会社員時代に身体を壊した影響でフリーライターをやっていますが、会社員に復帰できるならしたいと思っています。仕事は好きなんです。
問題はそれを「自己主張して楽をしようとする心理を持つ人が多すぎる」という点にあります。
うつ病になった原因が環境のせいだろうと、誰かのせいだろうと、会社のせいだろうと、そんなのはどうでもいいんです。
あの人は病気だから周囲が支えてあげようね!って考えは、あくまで周囲が自主的に行うものであり、本人が「自分うつだから支えろよ!当たり前だろ?わたしうつ病なんだよ?」
と主張や強要するもんじゃないんですよ。
それを理解していない人が多すぎる印象があります。とくにSNSなどを見ていると。
まあそもそもSNS自体、自己承認欲求を満たすために使う人がほとんどでしょうけど。
ではなぜ、このような考えになるか
この原因はさきほどの過保護な教育方針と、SNSなどの浸透にあると思っています。
とくにTwitterなどは、各個人に起こったことを大多数に共有できるとても便利なツールです。
極端なブラック企業撲滅にも役立つでしょう。
が、それが度を超すと、各個人の自己中心的な考えを社会に押し通す悪魔のようなツールになってしまいます。
先に書いた教育方針により、自己中心的かつ他者の迷惑や立場を考えない人の比率が多くなるということは、各個人の自己中心的な考えに賛同する絶対数が増えるということ。
そして国とは国民の寄せ集めであり、運営の方向性は原則として多数決で決定します。
法律も規律も働き方も教育方針も、ぜーんぶ多数決。
だって国や会社は人々の集合体だから。
大多数の意見を無視しちゃうと、テロやデモのきっかけになってしまう。
日本はとくに平和国家だから、国民の属性に合わせて変わっていく。
でだ。
さっき言ったような自己中心的な意見がSNSを通して大多数の賛同を得れば、それは社会問題になるわけだ。
Twitterで注目を集めようと、小細工をしてどこかの食品に問題があると言ってその画像を投稿すれば、ネットを通して大問題になる。
場合によっては、その商品自体が生産中止になることもあるだろう。
よく考えてみてほしい。
このたとえで言えば、大手食品メーカーの食品何万・何十万・何百万・何億って食品の製造を、虫や異物を一切混入させずに行うなんてことできると思います?
もちろん、そうした問題が起きないよう徹底するのは大前提ではある。
がだ、実際の問題として不可能だ。
虫とかどの過程で混入するか分からないし、何より数が膨大。
SNSとかがない時代なら
「その問題があった商品を購入した人がメーカーに連絡して、文句をさんざん言ったあとにお詫びの品として同じ商品を1ケース無料で送らせる!」
とかで済むんですよ。
実際そうしてきたわけですから。
それが今はTwitterなりに画像が載せられ、何万と拡散されて問題になる。
そして面白半分でそれを偽造する馬鹿な若者も多い。
あらゆる情報を全世界と共有できるようになったというのは素晴らしいことだと思いますが、どうにも活用しきれてない感が半端ないんですよね。
さらに過保護で物事を深読みや想像ができない、あるいはそれが平気だと感じてしまう教育方針と重なって、まあめんどくさい世の中になっていると思います。
便利なものは人間を弱体化させる
最近は人と会話するの自体抵抗を持つ人も多いですが、それは便利になりすぎた悪影響です。
メールなどの連絡が当たり前になれば、音声による対話を避け始めるのは必然でしょう。
こうした通信技術は大変便利で、人類社会を大きく発展させたものであるのは確かです。
しかし、文明の進化による便利さは人本来の能力を劣化・退化させる要因でもあります。
車や電車・バスなどが生まれたことで、現代人の運動不足・肥満率は上昇しました
ネットでのやりとりが当たり前になれば、人は会話能力・コミュニケーション能力が低下したと言われるようになりました
パソコンでの書類作成が当たり前になれば、人は漢字の書き方を忘れます(読めるけど書けない漢字、多くないですか?)
ネットで何でも答えが見つかるようになれば、答えを考える・生み出す想像力・思考力が低下したと言われます
パソコン画面越しの人としか交流がなくなれば、対面では他人をNPCとしか見なくなります
結局、「便利になる」ってことは、それだけ人間の脳や筋肉に与える負荷が減るってことです。
人の体や脳は使わなきゃ弱体化します。
AIが人の仕事を奪っていく!なんて言われていますが、数百年後にはすべての仕事をAIやロボットが代行して、人類は労働せずに生きていくようになるのかもしれません。
そうなれば、もはや生きている意味さえなくしそうですが・・・
Googleがそのような世界を作ろうと技術を進展させている影響もあり、人類は今後どんどん便利になっていくでしょう。
しかし、それに比例して社会性を持った人らしさはどんどんなくなっていくとDは思います。
ぜんぶ自分一人で完結できる世界。
何にも苦労せずとも安心安全な未来と生活が保証された社会。
一見理想的で素晴らしいように見えるかもしれませんが、不味いものを知らなければ美味しいものを認識することはできないのです。
便利と快適が極限まで極められたとき、人はどうするのでしょう?
酒・女・食など、あらゆる贅沢が何の苦労もせず生まれたときから当たり前にあり、一切の苦労がないような世の中。
あくまで個人的な観測ですが、犯罪に類似する行動で刺激を求めだすか、逆になんの楽しみも見いだせず絶望して死んで行く人が増えるんじゃないかと予想します。
ふう。
なんやかんやで5000文字も書いてるし、この辺りで締めくくります。
個人的思想の一つにすぎませんが、まあ親としての立場を持っている人やそうでない人も、読み物程度に思ってもらえれば幸いです。
ではでは!